討論ではない「座談会」が日本人にはよく合う
インタビュー、対談をまとめるのが、三度の飯より好きなワタクシ…・・。
いや、さすがにそれは言い過ぎですかね。
でも、自分で文章を書くのは、全く違う筋肉を使っている感じが心地よいのです。
人数が多い座談会となると、一人一人の発言量は減るけれども、流れを作る楽しさはさらに増すような気がします。
視点が増えますからね。
そんな座談会って、日本の雑誌でやたらと多い形式なのだ。
今日の座談会の設計をつくったのは、文藝春秋の創業者、菊池寛。
菊池寛は言います。
「多くの権威を一堂に集めて、短時間に意見なり思想なりを発表してもらう便法は、座談会の功績で、恐らく新聞雑誌の続く限り、座談会と云う形式は永久に続くであろう」
この予見通りになっているといえるでしょう。
そんな「座談」について、掘り下げたのがこの一冊。
紹介されている外国人パネリストの座談会評が実に面白いんです。
なんでこんなものが日本では主流なのか、という感じなんですな。
「首尾一貫していて、よく練り上げられ、よく考え抜かれた議論が不在」
「『座談会』は、実際には衝突を起こす話題を排除することによって、コンセンサスによって成立するイデオロギーを強化している」
手厳しいご意見、そのとおりだなあとも思います。
人選の段階で、本格的な衝突は避けるメンバーを集めるのが常ですしね。
しかし、そもそも座談会とはディスカッションではないところに醍醐味がある。
以下、本書より。
「ここで生まれる関係とは、相手に対する譲歩ではない。
さりとて真っ向から対立している訳でもない。
向こう側の意見に何がしか自分が気付かされるところがあり、それによって生じる思わぬ話の展開に身を任せるという、まさに会話の持つ弾力性によって裏打ちされた自在感に富むものである」
相手の思想に触れながら、自分の思想と類似点と差異に改めて着目する。
そのことで、自分自身への気づきが生まれることもある。
必ずしも明確な結論を出そうとしないところも、座談会の面白いところなのだ。