真山知幸ジャーナル

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トーク・イベント「文学と反レイシズム」に参加して

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長男にせがまれて、家族で東京ドームシティのヒーローショーを観覧。前作の「ゴーバスターズ」がシリアスだっただけに、ポップでコメディな「キョウリュウジャー」は、個人的にも好きだ。いざ戦うときに、いつも恒例のサンバのダンスを踊る正義の味方も笑えるし、対する敵の間抜けぶりも実によい。あまり重い作品は、小さな子どもには良く分からないし、テンションが落ちてしまうしね。

ヒーローショーはよみうりランドなどでも観ているが、今回は「敵がキョウリュウジャーの能力をコピーして偽者を作る」と、ちょっと凝った脚本。室内だと映像が駆使できる強みがあるなあ。最後は敵が自分の能力に溺れたがゆえに、敗れてしまうというところも、示唆に富んだ内容だったと思う。

とはいえ、ヒーローショーのお約束は踏まえており、大きな展開は同じ。しかし、同じであるがゆえに、思わず涙腺が緩んでしまう。手ごわい敵の前に、劣勢になる正義の味方。そこで司会者のお姉さんが登場して「みんなの力を貸して!」と懇願。すぐさま、観客の子どもたちから上がる「がんばれー!がんばれー!」の大合唱。うちの息子も必死に声を張りあげる。「がんばれー!」。「自分の言葉が確かに相手の力になるはず」と信じて必死に叫ぶ子どもたちに、いつも、じーん、としてしまうのだ。

しかし、言葉の力で人を傷つける快感に酔いしれてしまうような現象が、今の日本では起こっている。ヒーローショーが終った後は、新宿で編集者T氏と合流して、トーク・イベント「文学と反レイシズム」に参加した。こんなかたちでのイベントの梯子をするのも、自分くらいのものであろう……。

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実に3時間に及ぶトークイベント。発言者の面々は、左から武市一成(国際文化学拓殖大学)、桜井信栄(在日コリアン文学、南ソウル大学)、中沢けい(小説家、法政大学)、深沢潮(小説家)、高橋一清(文藝春秋元編集者)の各氏。

前半はなかなか意見がクロスせずに、混沌としていたものの、後半からは意見交換も見られてシンポジウムらしくなった。みなが言いたいことがたくさんあるだけに、司会を務めた武市氏も大変そうに見えたが(笑)、最終的にはそれぞれの立場の人の意見をよく引き出していて、有意義かつ熱量の高いイベントとなった。

激しいレイシズム(人種差別)が行われている背景に、文学の衰退があるのではないか、とした中沢けい氏。レイシストと議論することの不毛さを、中学生の息子との口論に例えたのには思わず噴出してしまった。「今展開されているヘイトスピーチはテンプレート」の指摘も、レイシストたちの底の浅ささともに、それがゆえの根深さをよく表現している。

 

高橋一清氏は「表現者は自分の存在を知らしめようとすることで、自分を知り、また相手を知る」と語ったが、そうした表現者による作品が読まれなくなったことと、多角的な者の見方が失われつつあるのかもしれない。それは、ゲストとして発言した『ネットと愛国』(講談社刊)などの著書があるジャーナリストの安田浩一氏が、レイシストの特徴として「『そこに相手がいる』という感覚の欠如」を挙げたこととも、つながるところだろう。

ゲストの有田芳生氏が、細田傳造氏の詩を紹介しながら、たった一人でも差別と戦った実例を紹介したのは、勇気付けられる思いがした。作家の深沢氏は、著作『ハンサラン 愛する人びと』について、「強く訴えたいというよりも、『こういう人もいます』『こういう気持ちもあります』という気持ちで書いた」と語ったところは、作品を読んだ人ならば誰もが感じるところだろう。自分で選択できない生まれた条件を呑み込んで、懸命に日々を生きていく人たちの姿には、弱者やマイノリティの反骨精神とはまた違う、力強さがある。こういう作品を広めることも、「個人で差別と戦う」方法の一つかもしれないなどと考えた。この作品は、声高に叫んでいないからこそ、筆者がそこに主眼を置いていないからこそ、差別を払拭する力があると思うから。

差別に対するカウンターについては、それほど語られなかったが、最後に質疑応答で話題に出た「罵倒には罵倒を」の正当性については、すんなりと首肯できない自分がいた。もちろん、現場にいる人しか分からない切迫感があるだろう。しかし、いささか悲しい考えではないか。

桜井信安氏が会の冒頭で話した言葉を反芻しながら、帰路につく。

「言葉は愛と正義を実現するために存在している」

(桜井信栄)

ハンサラン 愛する人びと