真山知幸ジャーナル

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ジョン万次郎、登場のタイミングが良すぎて疑われるの巻

いつの間にやら『ざんねんな歴史人物』も3刷目を迎えており、『ざんねんな偉人伝』とともに、支持され続けているようだ。

 

児童書はシリーズ展開すると、既刊本となっても書店に置いてもらえるのが、嬉しい。書き手としては、長く読者に読み継がること以上のことはないだろう。

 

さて、『ざんねんな偉人伝』と『ざんねんな歴史人物』において、大体130人ばかりの偉人を取り上げた。

 

「新しい伝記シリーズ」と謳っているからには、新作もリリースしていく予定である。どれくらいの偉人を扱えるかしらん。どこかで合本とかしても、面白いかもしれない。

 

両冊で取り上げていない偉人も、もちろんまだ多くいる。そのうちの一人がジョン万次郎である。「地球7周分も航海した漂流者」という時点で、すでに規格外の人物だといえよう。

 

そして、ジョン万次郎が帰ったタイミングが、また絶妙だった。なにしろ、帰国したのは嘉永4年(1851年)。

 

そう、ペリー率いる黒船来航の2年前なのである。

 

国内で英語を使える人間の価値が、最も高まるその時期に、万次郎はタイミングよく日本に帰っていたことになる。

 

あまりの偶然に、スパイではないかと思いっきり疑ったのが、徳川斉昭である。阿部老中に次のような密書を送っている。

 

「日本を慕って帰国してきたことは感心しますが、もともと、アメリカは万次郎が幼年だから、先を見込んで恩を着せて学問をさせたのは、策略がないとは言い難いのではないですか。万次郎とて命を救われ、幼少から20歳までの恩義があるので、アメリカが不利になるようなことは決して好まないでしょう」

 

猜疑心が強い斉昭らしい手紙である。結局、万次郎はその英語力を買われて、立身出世を果たすので良かったが、しばらくは国レベルで疑われていたであろうと思うと、なかなかの「ざんねんさ」である。

 

逸話には事欠かない人物だ。どんな切り口にせよ、次回作では取り上げたいなと思っている。待っててくれよ、ジョン万次郎。

 

 

ざんねんな偉人伝 (新しい伝記シリーズ)

ざんねんな偉人伝 (新しい伝記シリーズ)

 

 

「教育虐待」と「睡眠負債」

「教育虐待」という言葉が目に飛び込んできた。内容は想像がつく。子どもの受験に備えて、親の指導がエスカレートすることだろう。

 

週の始まりから読みたい記事ではなかったが、「教育虐待」という言葉に引きずり出されて、一読。これは、なるほど、虐待そのものだ。

 

www.tokyo-np.co.jp

 

増加する中学受験者数に、加熱する親。

 

東京で子どもを育てていれば、それほど珍しく感じる事象ではない。だが、過度になれば、子どもにとっては、もはや虐待に等しい。それが「教育虐待」として、クローズアップされてきた。

 

これは「睡眠負債」の言葉が出てきたときに似ているように思う。

 

睡眠不足自体は、何も珍しい事象ではない。だけど、睡眠不足が日々溜まることを「睡眠負債」と呼ばれれば、その深刻さは増す。

 

何とかしなくてはならない。そう思わせる力を持つ言葉だ。「教育虐待」も、そう呼ばれれば、切実さが増すように。

 

事象が言葉がつくり、言葉が事象をつくる。何も新しい言葉は、新しい事象にのみつけられるものではない。すでに横行していることを改めてとらえなおすには、腑に落ちる表現が求められる。

 

「教育虐待」や「睡眠負債」は、その役割を十分に果たしているように思う。

 

 

「話を聞く」とは何か

「話を聞く」というのは、案外に奥が深い行為ように思う。

 

ただ、ふんふん、と相手の話を聞いているだけでは、一方的なお説拝聴になってしまい、話を聞いていたはずが、気づけば自分の話ばかりをしている、ということもある。

 

「聞き上手になる方法」という類の本は、世にわんさかとあるのだが、そこあるのは「相手にしゃべってもらう方法」であり、本質的なものは少ない。

 

いいかえれば、「相手に興味を持つにはどうすればよいか」というポイントを示しているにすぎず、会話をテクニカルなものに落とし込んでいる時点で、むしろ「話を聞く」という行為から遠ざかっているのではないか。

 

 

 

他者と自分理解の場をいかに築くか。こぼれ落ちた言葉を受け入れる行為がもたらすものとは何か。そんな問いに挑んだのが、鷲田清一の『「聴く」ことの力』である。

 

<話すためには、まず聴かれなければならない。話はつねにだれかに向けてなさせるものだからである>(本書より)

 

思うに「聞き上手」とは「再構築上手」ではないか。相手から聞いた話を、自分の言葉で再構築して投げ返しながら、自分の考えもまた深めていく。他人の気づきから、自分に気づく。その繰り返しなのかもしれない。

 

偉人にだって愚痴や嘆きがある『ざんねんな名言集』

自分が後に「偉人」として名をがっつり残すと知っていたならば、また言動も気をつけるのかもしれないが、大抵の人は、自分がどんなふうに語られるかなど考えないので、やはり偉人と呼ばれるような立派な人でも、仕事や私生活での愚痴は、当然あるわけなんですね。

 

というのが、この本なのである。読者メータには、嬉しい感想がある。いいぞ。

 

bookmeter.com

三省堂書店アトレ秋葉原店さんでの激押しにも感謝。今は、もう棚が変わっているかもしれないが・・・。

 

 

当たり前だが、どんなに人から羨まれるような人にも悩みはあって、しかも、そのバリエーションは、そんなに多くないということに、ほっとするという、ネガティブだけど、ポジティブになれる名言集です。

 

 

 

スタジアムでビールを飲んで歌えば楽し

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FC東京のサポーターになって、まる3年ほどが経つ。諸先輩方に比べるまでもなく、まだ日が浅いわけだが、それでも、なかなかどうして、チームや選手への愛着というものが沸いてくるものである。

 

何が楽しいかといえば、まずは野外でビールを飲むのが楽しい。ゴール裏で、らららと歌いながら、得点が入れば騒ぎ、失点すればえらく落ち込むというのも、また楽し。仲間と観るのも良し、ひとりでぽつねんと観るのも良し。

 

いつの試合だったか、その日は一人でゴール裏近くで観戦していた。例のごとく、大声で歌いながら、ビールを飲んでおり、サッカーを観てなければ、ただの酔っぱらいである。

 

得点が入って盛り上がったそのとき、とんとんと背中を叩かれたので、振り向くと、好青年がハイタッチを要求している。おお、とすぐに応じて、この男は僕が一人で来ているものだから、喜びを分かち合う相手がおらんだろうと、わざわざ、背中をとんとんしてくれたのだと、思い至った。なんだか、妙に嬉しかった。

 

Jリーグは地域密着型なのがよい。スタジアムに足を運び、試合結果を普段からチェックするようになれば、選手も次第に覚えて来る。そこからが、いよいよ楽しい。スタジアムへ身を投じるべし。

 

 

新刊『ざんねんな歴史人物』が出ました!

『ざんねんな偉人伝』の続編にあたる『ざんねんな歴史人物』が出ました!

 

hon.gakken.jp

今回は、偉人に限らず、広く「歴史人物」のパーソナルな部分をですね、ご紹介した次第です。対象が広くなった分、よりぶっとんだエピソードもあり、「これはいかんよ!」と読んでいて、ツッコミを入れたくなります。

 

副題は「それでも名を残す人々」(笑)。そう、それでも、歴史に名を刻んでいるという事実。インパクト勝負なの、人生は。もう少し、気楽に楽しんでもいいのかもしれない。

 

ちなみに、前回の副題は「それでも愛すべき人々」。

 

hon.gakken.jp

合わせて読むと、結構、世界史、日本史の勉強にもなるのではないかしらん。よろしくお願いします~。

 

 

物語はえらいの巻(『戦国ベースボール』という発想)

『ざんねんな偉人伝』の続編を書いている。初校の校正も大半が終わり、大詰めという雰囲気。ただのパート2では、おもしろくないので、より強烈な内容となっているので、楽しんでいただければと思う。まだ、終わってないけど……。

 

執筆の休憩にと『戦国ベースボール』を読む。絵はトリバタケハルノブさん。戦国ベースボールでトリバタケさんのファンになった小学生の息子は、ついに『トーキョー無職日記』『三十歳バツイチ無職、酒場はじめます』まで読みだした。無職の世界に触れるのは、ちょっと早い気もするが……。まあ、この先、何があっても安心かな……。

 

 

 

『戦国ベースボール』のキャラも、なんとも可愛い。執筆の休憩にと手を伸ばすが、読んでみると、新資料からの知見がキャラクター造形やストーリーに活かされていたりして、息抜きにならない(笑)。史実と物語を結ぶ、りょくち真太さんの力業がぞんぶんに発揮されている。

 

 

 

歴史人物を身近なものにする――。

その目的は『ざんねんな偉人伝』と同じだと思われるが、物語にしてそれを伝える、というのは、全く次元の違う話だろう。

だって『戦国ベースボール』ですよ? いや、野球も戦国武将も、子ども好きだけれども! くっつけるなんて、常人の発想じゃないでしょう。信長の野球……。

自分が書いているようなものと、それぞれの役割があると思いつつも、やはり改めて思うのだ。物語はえらい、と。