真山知幸ジャーナル

告知、執筆活動の記録のほか、書評、名言、偉人についてなど

朗読についておもむろに考える(1)

フリーアナウンサー原きよさんのインターネットラジオ

ゲスト主演したのは、もう随分前のことだ。

原さんは詩、現代小説など様々な朗読ライブを行っていて、

太宰の朗読会に数回、参加したことが縁の始まりだった。

収録したのは真昼なのに、まるでスタジオは夜中のような雰囲気。

原きよさんの静かな語りがそうさせているのだろう。

深夜ラジオでこんな朗読を聴けたらば、眠れぬ夜の孤独も和らぐに違いない。

そう思ったことをよく覚えている。

僭越ながら、僕も少しだけ朗読させてもらった。

恐ろしく未熟な読み方にもかかわらず、マイクを通して聞くと

それなり聴こえるのが不思議で、ハマる人の気持ちが少し分かった。

原さんより以前に僕が朗読に触れた機会といえば、

高校時代の授業までさかのぼってしまう。

特に記憶に残っているのは、保険体育の時間の朗読である。

ちょうど教科書が性的な内容に差し掛かっていたとき。

順番的にそこを朗読させられるのは、

クラスで物静かでミステリアスな女子だった。

前回の授業からそのことは分かっていたので、

その一週間、男子の間では、ざわ・・・ざわ・・・・ざわ・・・

という不穏なムードが漂っていたのである。

 

はたしてどうなってしまうのかっ!

バカ男子は固唾を呑んでその瞬間を迎えたが、

当の女子は平然といつもと変らないクールなテンションで

あっさりとその箇所を読み上げてしまい、面白くもなんともなかった。

当然といえば、当然である。

実にバカな想い出だが、こんなことで

盛り上がってしまうのもいかにも思春期らしい。

しかし、どんなにくだらない話にも教訓はある。

このエピソードからは

「いかに朗読はさせられるものだったか」ということが、

当時の授業の雰囲気とともに、ありありと思い出させる。

そう、授業という強制力のもと、

嫌々ながら淡々と行うもので、

決して力をいれるべきものではない。

教師もどこか「読ませておけばいいだろう」

という雰囲気が合ったように思う。

教師も生徒も「朗読」という行為に

何ら期待していない空間が広がっていたのである。

そんな朗読を国語教育に効果的に取り入れるべく、

その理論と実践について研究されているのが、

早稲田非常勤講師の中村佳文さんである。

1月21日に早稲田大学で開かれた

早稲田大学国語教育学会 第250回記念例会」にて、

中村さんの「〈教室〉における声の自覚 

-実践としての理解・表現・コミュニティー」を聴講してきた。

【つづく】